「タイに行ったら、まず飯を食え。リングに上がる前に、その国を腹に入れろ。」——僕が師匠から言われた言葉ではないが、勝手にそう思っている。
ムエタイの本場タイに、僕は何度も渡った。
試合のため、修行のため、あるいは「もう一度あの空気を吸いたい」という理由だけのためにも。バンコクの喧騒、パタヤのリング、チェンマイの朝靄——どの場所でも、僕の隣には必ず「飯」があった。
タイ料理というのは、不思議な食い物だ。辛くて、甘くて、酸っぱくて、しょっぱい。全部が一皿の中に同居していて、それが全然ケンカしていない。格闘技でいえば、パンチもキックも肘も膝も、全部使いこなす総合的な強さとでも言おうか。
今日は、そんなタイ料理の中から僕が本気で推す10皿を語る。日本の「なんちゃってタイ料理」ではなく、現地で食って「これだ」と思ったものを基準にしている。
【主食・ご飯もの】戦士の燃料
1. ガパオライス(パッ・ガパオ・ラート・カオ)
タイ料理の入門と言えばガパオ、ガパオと言えばタイ料理の核心——それくらい、この一皿は重要だ。
バジルと豚ひき肉(または鶏)をナンプラーで炒めてライスに乗せ、目玉焼きをトッピングする。シンプルにして完璧。タイの飯屋では、昼どきになると街中で「パッ・ガパオ!」という注文が飛び交う。
僕がタイのジムで練習していた頃、昼飯は毎日これだった。一皿40〜50バーツ(約160〜200円)で、練習で消耗したカロリーがみるみる回復していく感覚がある。卵の黄身を崩してご飯に絡めながら食う瞬間が、一日で一番幸せな時間だった。
高槻の某タイ料理店でも食えるが、現地の屋台で食うガパオはまるで別次元だ。あの違いがなんなのか、今でもよくわからない。
2. カオマンガイ
鶏のゆで汁で炊いたご飯の上に、蒸し鶏のスライスを乗せる。それだけ。
だがこれが、恐ろしく旨い。
タイ料理の中でも、派手さゼロの地味な存在だが、食べ続けると「こいつが一番強い」ということに気づく。格闘技でいえば、試合でジャブしか打たないのに誰にも負けない選手みたいな存在だ。ジャオじゃなくてタオチオ(発酵大豆ソース)と生姜ソースをかけて食うのが正解。
バンコクのカオマンガイ専門店「ゴーアン」に行ったとき、行列が50メートル以上あった。それでも並んで食った。その価値があった。
3. カオニャオ(もち米)+おかず各種
イサーン(タイ東北部)料理の基本がこれだ。日本のおにぎりのように手でまとめて、おかずと一緒に口に放り込む。
ムエタイの選手は、イサーン出身者が多い。強い選手が多い地域の食い方を、僕は尊敬している。もち米は消化がいい上に腹持ちがする。練習前後の主食として、これほど優秀なものはない。
ソムタム(次に紹介する)と組み合わせたとき、それは完全な食事になる。
【スープ・鍋】タイの「だし」の哲学
4. トムヤムクン
タイ料理の代名詞。世界三大スープのひとつとも言われる、レモングラス・カー(ガランガル)・コブミカンの葉が生み出す酸辛スープ。
クン(エビ)入りが基本だが、現地では鶏(トムヤムガイ)や豚でも食べる。重要なのはスープだ。あの一口目の衝撃——酸味と辛みと旨味が同時に来て、鼻の奥が通り抜けていく感覚——は、初めて現地で食ったときの記憶と完全にリンクしている。
試合前夜、バンコクのホテルそばの食堂でトムヤムを飲んだことがある。「明日は絶対に勝つ」と思えた。理由はわからないが、そういう力がある。
5. トムカーガイ
トムヤムの「辛くない版」——ではなく、全く別の料理だ。
ガランガル(カー)とコブミカンの葉をベースにしたスープに、鶏肉とマッシュルームを入れ、ココナッツミルクで仕立てる。クリーミーで優しいが、奥に複雑な香りの層がある。
タイ料理が辛くて食べられない人には、まずこれを勧める。辛さはほぼゼロだが、タイの「だし哲学」がそのまま凝縮されている。これが旨いと思えたら、タイ料理の本質に触れた証拠だ。
【カレー】タイカレーは別物だ
6. グリーンカレー(ゲーンキャオワーン)
「カレー」と言っているが、インドカレーとは全くの別物だと思ってほしい。
青唐辛子をベースにしたグリーンペーストをコナッツミルクで伸ばし、鶏肉・茄子・バジルを煮込む。見た目は鮮やかな緑、香りは南国、辛さは本物。
日本で食べるグリーンカレーは大抵辛さが抑えられているが、現地のものは本当に辛い。でもその辛さの向こう側に、コナッツミルクの甘みとバジルの清涼感が広がっていて、口の中がジャングルになる。
チェンマイで雨に打たれながら食ったグリーンカレーが、一番旨かった。理由は「寒かったから」だと思う。
7. マッサマンカレー
タイカレーの中で、僕が一番好きなのはこれかもしれない。
イスラム文化の影響を受けたカレーで、シナモン・クローブ・カルダモンなどのスパイスが香り、じゃがいもと牛肉(または鶏)がじっくり煮込まれる。タイカレーの中では最も甘く、最も深く、最も「南方の複雑さ」を持っている。
これを食うたびに、タイという国が東南アジアの交差点であることを実感する。中国の影響、インドの影響、アラブの影響、そして独自の進化——全部が混ざり合って、唯一無二の味が生まれる。格闘技の流派の話に似ている。
【サラダ・前菜】口が目覚める料理
8. ソムタム(パパイヤサラダ)
青いパパイヤを千切りにして、ライム・ナンプラー・唐辛子・砂糖・干しエビ・トマト・インゲンなどと一緒に石臼で叩いて和える。
これが、タイ料理の中で最もパンチ力のある一品だ。
辛い・酸っぱい・甘い・しょっぱい・うまい。五味が全部激しく主張してくる。「タイ人の味覚はどうなっているんだ」と最初は思うが、食べ慣れると「これがないと物足りない」という域に達する。
イサーンスタイルのソムタムは、ナンプラーの代わりに発酵魚介の「プラーラー」を使う。初めて食ったときは「なんだこれは」と思ったが、今は「なんで今まで知らなかったんだ」に変わっている。
9. ラープ
ひき肉(豚・鶏・魚)をミントの葉・赤玉ねぎ・唐辛子と一緒に和えた、イサーン料理の代表格。炒り米(カオクア)を砕いて混ぜることで、独特の食感と香ばしさが加わる。
名前の意味は「幸運」。縁起のいい料理として、タイの祝いの席でも登場する。
僕が初めて食ったのは、タイのジムで試合に勝った翌日、トレーナーが「祝いだ」と言って作ってくれたラープだった。あの味は、勝利と一緒に記憶に刷り込まれている。ラープを食うたびに、あの日のリングが蘇る。
【屋台飯・おやつ】路上が一番旨い
10. ムーピン(豚肉の串焼き)
最後はこれだ。
ナンプラー・ニンニク・コリアンダーの根・砂糖で漬け込んだ豚肉を、炭火で焼いた串焼き。一本10〜15バーツ(40〜60円)。
バンコクの朝、ルンピニー公園の周辺を歩けば、必ずムーピンの屋台がある。炭の煙が立ちのぼり、甘辛い香りが漂い、おばちゃんが黙々と扇ぎながら焼いている。その光景が、僕にとっての「タイ」だ。
どんなに高級なタイ料理を食っても、このムーピン一本には勝てないと思うことがある。素材・火・時間——それだけで作られた料理の強さは、格闘技の「基本技の強さ」と同じだ。派手さはない。でも、誰も文句が言えない。
最後に——タイ料理とムエタイは同じものだ
僕が思うに、タイ料理とムエタイは根っこが同じだ。
複数の要素が混ざり合い、互いに補い合い、全体として一つの力を生む。辛さだけでも甘さだけでも成立しない、バランスの芸術。ムエタイも同じで、パンチだけでもキックだけでも強くなれない。全部の技が噛み合って初めて「ムエタイ」になる。
タイに行くたびに、僕は格闘技の話を飯から学んでいる気がする。
TURN UPでは、週に一度「ムエタイクラス」を開いている。タイ式の構えから始め、ムエタイのリズムと哲学を体で覚えていく。興味があれば、体験レッスンから始めてほしい。そして終わった後は、一緒にガパオでも食いに行こう。
タイ料理は、旨い。ムエタイは、強い。どちらも本物は、現地に勝るものはない。