果てしなく続く 万里の河よ
流れ去る日々よ 戻らない時よ
それでも僕らは 漕ぎ続けていく
この河の果てを 探しながら
CHAGE and ASKAの「万里の河」を初めてちゃんと聴いたのは、確か二十歳そこそこのころだったと思う。
当時の僕はまだ選手として試合に出ていて、毎日がとにかく必死だった。朝走って、昼にミットを打って、夜スパーリングして、それを繰り返すだけの日々。余計なことを考える余裕もなかった。でもその曲だけは、なぜか耳に残り続けた。
万里の河。一万里の河。どこまでも続く、終わりの見えない流れ。
なんとなく、自分の人生みたいだと思った。
河は止まらない
格闘技を長くやっていると、「時間」というものに対して独特の感覚が育ってくる。
試合の3分間は、練習中の3分間とはまったく別物だ。リングの上では、1秒が途方もなく長く感じられる瞬間と、気づいたら終わっていた、という瞬間が混在する。時間が伸び縮みする感覚、とでも言えばいいか。
でも現実の時間は、そんなことには構わずに流れ続ける。河と同じだ。
引退したとき、最初はその「流れ」に乗り遅れたような気がした。現役時代は「次の試合まであと何日」という逆算で生きていたのに、急に目標の軸がなくなった。河の上で、ふと漕ぐのをやめてしまったような感覚。
でも河は待ってくれない。流れに逆らうことも、止めることも、誰にもできない。できるのは、ただ漕ぎ続けることだけだ。
選手たちのこと
ジムに立っていると、会員の方々それぞれの「河」を感じることがある。
仕事を辞めて、新しい何かを探している人。子供が生まれて、自分のための時間が急に少なくなった人。年を重ねるにつれて、体が昔のようには動かなくなってきた、と苦笑いする人。
みんな、それぞれの流れの中にいる。同じ河の上で、それぞれ違う速さで、違うオールを漕いでいる。
そういう人たちを見ていると、ジムというのは不思議な場所だと思う。一緒に汗をかいているだけで、妙な連帯感が生まれる。言葉にしなくていい。「あなたも漕いでいるんだ」ということが、なんとなく伝わる。
それだけで、少し楽になる。そういうものだ。
果てを探すということ
「万里の河」の歌詞の中で、僕が一番好きな部分は「果てを探しながら」という一節だ。
果てを「知っている」とは言っていない。「見えた」とも言っていない。探しながら、漕ぎ続けている。
これが正直だと思う。
格闘技をやっていた頃も、ジムを始めてからも、「答え」が見えたことは一度もない。どこまで行けばいいのか、何がゴールなのか、よくわからないまま今日まで来た。でもわからないなりに、漕ぎ続けてきた。
それで、ここにいる。
果てが見えなくても、漕ぐことはできる。方向がはっきりしなくても、動くことはできる。動き続けることで、少しずつ景色が変わっていく。それが答えの代わりになっていくのかもしれない、と今は思っている。
流れ去るものと、残るもの
時間は流れ去る。それは止めようがない。
でも流れ去るものだけが全てじゃない、とも思う。
選手時代の記憶は薄れていく。体の動きも、あの頃のようにはいかない。勝った試合も、負けた試合も、だんだん夢の中の出来事みたいになっていく。
それでも、あの時間が自分の土台になっているのはわかる。河の底に積み重なった砂のように、流されずに残っているものがある。顔つき、とでも言えばいいか。何かに向かう時の、体の向き方。そういうものは残る。
ジムに来る人たちも、いつかここを卒業するかもしれない。引っ越すかもしれない、忙しくなるかもしれない、体を壊すかもしれない。それは仕方ない。河は流れる。
でも、ここで汗をかいた時間は残る。それを信じてミットを持っている。
CHAGE and ASKAがこの曲を作ったのは1981年、ふたりがまだ20代のころだ。その若さで「果てしなく続く河」を歌った。若いからこそ見えたものがあったのかもしれないし、若いからこそその長さに途方に暮れたのかもしれない。
あれから何十年も経った今、僕はこの曲を少し違う角度から聴く。
漕ぎ続けてきたから、今ここにいる。果ては見えていないけれど、昨日より少し先まで来た。それで十分じゃないか、と。
万里の河は、まだ続いている。